久々にぼやきっぽいぼやき

日本の巷では、pig virus(適当訳)が大阪西から蔓延しつつあるようです。
しかし、世の中は至って平和なもので、大阪駅前の中継ではマスクをしている通行人の数は・・・・ほぼ0とか。
それをリポーターが大げさなマスクを、さも煽るように着用しているので、余計に白々しく感じてしまう。


正直なところ、発症した後で感染したと分かる以上、潜伏期間が1〜7日あるvirusの伝播はどう甘く見積もっても止められないように思えます。現時点で大阪を封鎖でもしなければ。また、感染者の拡大の仕方は、指数関数的な増加だと思うので、すぐに自分の身に降りかかりうることだと思うんですよ。

「1日で数が倍増するvirusが、30日間である都市を埋め尽くしてしまったそうです。では、その都市の半分埋め尽くすにはどれだけの日数がかかったでしょうか?」

こんな問題がありましたね。答えは30日の前日。29日間です。
とか煽ると、virus拡大のニュースって、実はものすごく危険をはらんでいる、日本国民全員が危機感を覚えるべきニュースに思えますかね?
ま、実際は市やら国やらが必死こいて、弱毒性ですぐ治せるうちに文字通り殲滅させてくれるんでしょうと信じてますけど。


なぜ、報道されて皆知っているのに、こうも危機感がないのでしょう?


なんといいますか、TVを始めとしたマスコミ連中の、ニュースの伝達の仕方が定番になってるんですよね。
つまり、本当に死ぬほど大事なニュースはそれだけ重大に扱うのは当然として。
どうでもいいような三社面にのせればいいようなニュースを、他のニュースがないときにさも大事そうに伝達してくることが往々にしてある。
いわば新聞で言う見出しの大きさの尺度が曖昧になってきて、事実上被伝達者の生活に無関係なニュースが大げさに報道されてしまっていると感じることが多々ある。
結果的に、「重要だ」と報道されているはずのニュースに対する感覚が、オオカミ少年的に麻痺してしまう。


本当は、日々毎日その日に重大な「一面ニュース」を出さなきゃならないとしている以上、どれもが同列な訳はない。重要レベル的な分類と、ジャンル的な分類が、系統的にきちんとなされて示されるべきなんですよ。
分かりやすい報道をするってのなら、情報過多な現代的にやるなら、その日一日で終わって投げ捨てられるような言葉や文章の分かりやすさだけじゃなくて、1週間なり、1ヶ月間なりのスパンでどんな重大さのニュースがあったかを、いわば麻雀で言う流れのようなものがまとめられて示されて然るべきなんじゃないだろうか。一年に一回、10大ニュースやって「こんな事件あったねあはははは」って言ってんじゃなくてさ。
その点の蓄積させ方が昔から発展していないので、報道の被伝達者はだんだんと重要性に対する感覚が麻痺してしまう。
もしかすると、記者もさも特ダネをみつけて仕事をしているように見せかける必要があるので、小さなどうでもいいニュースをさも大事な話のように扱うことがあるのかもしれませんね?もしそうなら、上記感覚麻痺を助長していることでしょう。


また、TVニュースだと、時系列の順序でしかニュースを放映できない点がある意味特徴なので、世界経済的なニュースの直後に、急に同列のように地元の交通事故のような小さめのニュースを扱うような違和感ができてしまう場合がある。これは仕方ないといえば仕方ない。
まぁ、Kなぎ君事件がNHKのニューストップで扱われたような事態は論外ですが。NHKアホかと。


報道の早さを競っても、例えば新聞は既にwebにかなわない。
しかし例えば、機械的に収集して表示しているだけのGoogleニュースが、日々蓄積されるニュースに対して、命を吹き込んでいるか?そうは思わない。
ここでいう命とは、人間の手による、系統的な日々の歴史の編纂方法のような気がする。つまり、一連のニュースを結びつけて意味づけるってことなのかな?


うーん、まぁ、自分でもまだよく分からない。